摩文仁(まぶに)は糸満市にある地域名で、1946年の合併までは摩文仁村として存在していました。
沖縄戦の末期、日本陸軍第32軍の司令部が最後に置かれた場所でもあります。
沖縄戦では、摩文仁が最後の激戦地となったことは有名で、村民だけでも犠牲者数は約1200人近くと村人口の約半数にもなったそうです。
そのため村独自では復興が難しく、合併に至ったということです。
写真は平和祈念公園から見える岸壁です。沖縄戦で追い詰められた住民たちは、米軍に捕まるよりは崖から飛び降りることを選択することもあったようです。
摩文仁の崖の地図はこちら。
沖縄本島南部の糸満市摩文仁(まぶに)に、平和祈念公園があります。
世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などでなくなられたすべての人々の氏名を刻んだ祈念碑「平和の礎」を、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建設、1995年6月23日の慰霊の日に除幕式が行われました。
沖縄県内のみならず、毎年多くの修学旅行生たち、観光客が平和学習の一環として訪れます。
「戦没者の追悼と平和祈念」「戦争体験の教訓の継承」「安らぎと学びの場」の3つが平和の礎の基本理念となっています。
平和の礎に刻印されている名前は、2006年の時点で24万人を超えていますが、今もまだ追加刻銘を受け付けており、その数は増え続けているようです。
平和の礎(平和祈念公園)の地図はこちら。
沖縄の伝統楽器「さんしん」は、別名「蛇皮線(じゃびせん)」とも呼ばれていて、張ってある皮はニシキヘビの皮です。
日本には生息しないニシキヘビですが、琉球王朝時代にアジアとの交易によって輸入されていたようです。
1993年、元アナウンサーが提唱したのをきっかけに「さんしんの日」ができました。以来、毎年3月4日になると沖縄県内各地で一斉に、時報の音に合わせ、沖縄の代表的な祝いの曲「かぎやで風」を奏でます。
メイン会場の読谷村立文化センターでは、正午から午後8時までの毎正時(計9回)に「かぎやで風」を演奏するほか、古典・民謡の演奏や琉球舞踊などが300人以上の演者によって披露されます。
ラジオでもこの模様が公開生放送されており、メイン会場に行けなくても参加できることが魅力の一つかもしれません。
ちなみに写真は模型です。
「ひめゆりの塔」が観光名所として有名ですが、沖縄南部にはたくさんの慰霊塔があります。
そのうちの一つが「白梅の塔」。
沖縄県立第二高等女学校の4年生で編成された、白梅学徒看護隊は、東風平町富盛の八重瀬岳にあった第一野戦病院にて看護に専念しました。
解散後、戦火の下に離れ離れになった学徒隊でしたが、一部の人たちは再びこの地に合流。
その際に米軍からの猛攻撃を受け、無念の最期を遂げたといわれています。
昭和22年1月、白梅隊員及び教職員、同窓生の鎮魂と、世界恒久平和を祈念して建立されました。
写真はその白梅の塔と、学徒隊の名前が刻印された石、そしてお供え物です。同じ敷地内に、学徒隊が自決した壕がありました。
白梅の塔の地図はこちら。
オオタニワタリは、漢字で書くと「大谷渡り」。
シダ植物の仲間で、細長い葉を持ち、短い茎から外側に向かって広がっているのが特徴です。
シダの仲間ゆえに日陰や半日陰を好み、直射日光の当たるところではあまり見かけません。
沖縄では樹木や岩などに着生しているのをよく見かけます。
葉を広げているのは、落ち葉などを中央に集め、やがて落ち葉は腐葉土になり、それを自分の成長の蓄えにしているからだそうです。
暖かい地域に分布しており、特に南西諸島で多く見られますが、最近では園芸採取目的や様々な環境問題により、絶滅危惧種に指定されています。
沖縄では「シマオオタニワタリ」や「ヤエヤマオオタニワタリ」が多いようですが、見分けがつきにくいほどです。
by
勝ちゃん |
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沖縄では高気圧の影響で、2月下旬とは思えないほどの陽気。
しかし「暑い暑い」と言っているのは人間だけではないようです。
ひめゆりの塔や城跡など、観光スポットが多い本島南部、糸満市でこんなシーサーを見つけました。
ハート型?蝶型?のサングラス。ただのサングラスじゃ強面シーサーになってしまうからなのか、可愛らしいサングラスで強い日差しをシャットアウト。
こげ茶色はまるで日焼けのようで、沖縄ではシーサーも立派な島んちゅ。
お土産屋さんの入り口に、看板娘?のように座っています。
愛嬌たっぷりのシーサーが、糸満市にて観光客、地元人を和ませます。
ひめゆりの塔は、沖縄県本島糸満市にあります。
沖縄戦時中、沖縄陸軍病院第三外科壕であった跡に立つ慰霊碑です。
沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員で構成されたひめゆり学徒隊は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍していました。
その後の激しい戦闘で解散となりましたが、すでに周辺はアメリカの支配下にあり、脱出したわずかな人数を除いてほとんどが壕の中で過ごしたようです。
しかし更なる攻撃を受け、100名近くいた生徒、職員の生き残りはわずか5名。戦後、遺骨が集められて慰霊碑が建てられました。
写真の手前の穴は、壕の跡と思われます。それを過ぎると奥にはひめゆり平和祈念資料館があり、生存者の手記や従軍の様子などが展示されています。
ひめゆりの塔の地図はこちら。
「ひめゆりの塔」の近くのお土産屋さんに、こんなものを見つけました。
人間と同じくらいの背丈のキューピーが、パイナップル(左側)とゴーヤー(右側)の着ぐるみ姿。
パイナップルはちょっと分かりづらいです。
アイスクリーム屋さんのオブジェだと思われますが、道を歩いていたら突然現れた、この着ぐるみキューピーに驚きます。
ちなみに、「ゴーヤー」は独特の苦味がありますが、沖縄では郷土料理のゴーヤーチャンプルーにも使われていて、うちなーんちゅにとってとても身近な野菜です。
「パイナップル」も沖縄で栽培しているフルーツの一つで、「パイナップルパーク」というテーマパークもあるほど親しまれています。
場所は八重瀬町具志頭。
具志頭城は、14世紀の中期頃に英組王統第二代大成王の第三子具志頭(ぐしかみ、又はぐしちゃん)按司(あじ)が築城したものと伝えられています。
以来、代々の具志頭按司の居城であったといわれています。
按司とは、簡単にいえば琉球王国時代の地方の支配者。具志頭按司は、具志頭という地区を支配している人のことです。
25,700平方メートルの規模は沖縄の城跡の中で大きいほうで、かなりの勢力を持っていたようです。
断崖の上に建てられた具志頭城は海外貿易の拠点ともなっていました。
具志頭城跡の地図はこちら。
2000年の沖縄サミットを記念して作られた二千円札。
表面には沖縄県那覇市にある首里城内の守礼門、裏面には源氏物語の作者、紫式部が描かれています。
これは他の通貨に比べて以下の注目点があります。
・戦後初の「1」と「5」以外の単位
・表面のデザインが、人物でないこと(国会議事堂以来)
・最新の偽造防止技術が多数採用されていること
銀行やコンビニなどのATMで対応が進まないことにより、巷では二千円札は浸透していないようです。
守礼門に馴染みのある沖縄県では他の都道府県より流通量は高めですが、現在は生産はされていません。
もしニ千円札を手に取ることがあれば、今となっては貴重な体験なのかもしれません。
by
勝ちゃん |
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