santelinmo-koen-tenbodai糸満ロータリーのすぐ近くにある山巓毛。

隣接して、公園が併設されています。

アスレチック遊具と滑り台があります。

展望台からは、糸満漁港や町並みを一望できます。

夜景スポットしても知られていますが、糸満ハーレーの最初のレースが、ここでの旗振りの合図でスタートすることで有名です。

駐車場が公園のすぐそばに10数台分ありますので、車で来た方にも安心です。

山巓毛公園の地図はこちら。

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sanntelinnmo-「山巓毛(さんてぃんもー)」は標高約25メートルの石灰岩丘陵です。

昔の沖縄は、14世紀頃には三山時代となり、北部の北山、中部の中山、南部の南山に分かれていました。

1429年、南山の最後の王・他魯毎(たるみい)が、中山王・尚巴志(しょうはし)の攻撃を受け、妻子ともに自害した場所です。

沖縄戦当時は敵機を発見するための「防空監視哨」が置かれたり、国旗掲揚台があったり、戦跡としても名が知られている場所です。

現在では、糸満ハーレー(海神祭)のときに、この場所でスタートをつげる合図の旗が振り降ろされます。

山巓毛の地図はこちら。

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nahakuru-zuta-minaru「那覇クルーズターミナル」は、2014年4月1日に那覇市若狭にてオープンしました。

沖縄県を訪れる外国人観光客に向け、円滑な入出国手続きを実施し、沖縄の海の玄関口となっています。

施設内には、税関のほか動植物検疫、出入国審査ブースなどが設けられています。

受付で名前と電話番号などを記入すると、見学も可能だそうです。

迫力あるクルーズ船が来航している際には行ってみてはいかがでしょうか。

外国船の場合は一般の人立ち入り禁止の場合があります。

那覇クルーズターミナルの地図はこちら。

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ma-tyu-yamaato松山公園内にあるマーチューヤマアト(松尾山跡)。

琉球王国時代、松尾山は久米村の所有地でした。

1899年の土地整理事業で県の所有地となった後から、尋常小学校、病院、裁判所などが配置されていきました。

1944年の沖縄戦で松尾山やそこにある施設は一部焼失し、1977年の公園整備事業にて、現在の松山公園・福州園が整備されました。

石碑は、現在芝生の広場となった場所の端っこにあります。

マーチューヤマアトの地図はこちら。

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matuyamajinjosyogakkoato松山公園内には、様々な石碑がありますが、これもそのうちの一つ。

「松山尋常小学校・国民学校」がありました。

松山尋常小学校は1902年に開校、その後国民学校として名前を変更します。

終戦後、1951年(昭和26)には小学校・病院跡地に那覇商業高等学校が開校しました。(写真の石碑の後ろは那覇商業高等学校の校舎です)

松山尋常小学校・国民学校跡の地図はこちら。

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kumemurahassyonoti松山公園内に、「久米村発祥の地」という石碑があります。

はるか昔、中国の福建から沖縄に移住してきた人々がいました。移住者たちは、「久米三十六姓」と呼ばれています。

当時の琉球において、先端文明をもった移住者である「久米三十六姓」の政治的・経済的な地位は極めて高く、その末裔は今もなお、沖縄で大きな影響力を持っています。

彼らの住む「久米村」は当初城壁で覆われ、対外貿易の拠点・要塞となり、1609年に薩摩藩が琉球に侵攻した際には強く抵抗したそうです。

琉球政府の高官を務めた「久米三十六姓」の子孫は数多く、鄭迥氏や蔡温氏はいずれも、三司官にまで出世しました。那覇市牧志には今でも、「蔡温橋」という名前の橋が残っています。

久米村発祥の地の地図はこちら。

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kennrituokinawabyoinato「県病院」「県立病院」と呼ばれ、当時は県内唯一の総合病院だった「沖縄県立沖縄病院」。

最初は西村(現在の那覇市西)に出張所として医療をしていました。

1878年には医局を置き、1885年には下の天妃宮に移転して初めて病室を設け、入院患者を収容。

1901年に、写真の石碑が置かれている場所、那覇市松山に移転したそうです。

1944年10月10日の空襲で建物が焼失し、1945年には自然閉院。

現在は、公園と那覇商業高等学校の敷地になっているようで、商業高校では病院にまつわるうわさ話があるとかないとか・・・。

沖縄県立沖縄病院跡地の地図はこちら。

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siraumenootometati太平洋戦争での戦禍によって、松山公園の敷地内にあった「沖縄県立第二高等女学校」は1944年10月10日に校舎が全焼しました。

民家などで分散授業が行われましたが、戦争はさらに激しくなり、学校としての機能は成り立たず、戦後も復興されることなく自然廃校となりました。

写真の像は「白梅の乙女たち」の像。

創立80年の節目に、元職員、同窓生、家族の協力を経て、母校が存在した証の像が建てられました。

白梅の乙女たちの地図はこちら。

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yuunanuka-ato松山公園内に「ユウナヌカー跡」がありました。

沖縄の方言で「カー」とは井戸のこと。

近くにユウナの木があったことから、「ユウナの井戸」という意味でつけられたようです。

昔の貴重な水資源で、多くの人が飲み水に利用したそうです。

1933年に、当時念願だった水道が敷かれ、以降使われなくなりましたが、その後も水への感謝として拝まれているそうです。

ユウナヌカー跡の地図はこちら。

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higasionna-miyagi-kensyonoh那覇市松山公園内にある顕彰碑は、沖縄発祥の空手を広めた二人の功績を讃えて建てられました。

東恩納寛量は「那覇手」の祖といわれ、明治期を代表する空手家(当時は唐手と書く)です。

「那覇手」とは空手道の三大系統の一つで、「首里手」「泊手」と並びます。

剛柔流の開祖である宮城長順の師で、顕彰碑には並んで名前が刻銘されています。

顕彰碑には、全日本空手道剛柔流会藩士深利勝之会長はじめ20数名の幹部会員の名前が奉納記帳されています。

東恩納寛量・宮城長順の顕彰碑の地図はこちら。

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