瀬底島 慰霊塔
特に南部の「ひめゆりの塔」は有名で、本土の学校から修学旅行で訪れることも多いです。
沖縄本島北部の本部町と瀬底大橋で繋がっている「瀬底島」にも慰霊塔がありました。
大東亜戦争戦没者慰霊塔と書かれています。
慰霊の日になると、島々の方々で供養をするそうで、豊年祭などのお祭りもこの前で行われるそうです。
特に南部の「ひめゆりの塔」は有名で、本土の学校から修学旅行で訪れることも多いです。
沖縄本島北部の本部町と瀬底大橋で繋がっている「瀬底島」にも慰霊塔がありました。
大東亜戦争戦没者慰霊塔と書かれています。
慰霊の日になると、島々の方々で供養をするそうで、豊年祭などのお祭りもこの前で行われるそうです。
瀬底島にある瀬底小学校は、1890年2月に創設され、「瀬底簡易小学校」と呼ばれていました。
当初は男子のみ25名の生徒だったそうです。
時代の流れに沿って「本部尋常小学校瀬底分校」と改称されたり、「瀬底国民学校」となったりしました。
6・3・3の学制改革により瀬底初等学校に中等学校併設となり、1972年に移転して翌年の創立60周年を迎えます。
最初に建てられた瀬底小学校は、県道172号線沿いにある「瀬底小学校発祥の地」石碑がある場所でした。
1972年に移転した後は現在の場所(本部町字瀬底693)となります。
瀬底島側から瀬底大橋を眺める場所に、「瀬底大橋開通記念碑」があります。
そこは駐車場と記念碑とトイレしかない展望台ですが、「アンチ浜」へ行く道だと勘違いする人も多い場所です。
1985年の瀬底大橋開通まで、瀬底島と本島を結ぶ橋はなく、渡し船が唯一の交通手段だったため、橋の完成は瀬底島島民の悲願だったそうです。
国の補助を受けながらおよそ13年にもわたる歳月と57億円にも及ぶ工事費で、完成した橋は全長762mで当時の沖縄県において最長の橋でした。
「ここにこの一大事業を推進していただいた国、県、町並びに関係者の多くの方々の御協力に対し深甚なる感謝を捧げ永く顕彰するために、瀬底大橋開通記念碑を建立する」とあります。
島のほぼ中央にある山「伊江島タッチュー」で有名な「伊江島」。
「伊江島タッチュー」は正式名称は「城山(ぐすくやま)」といい、標高172.2mです。
本島からも、本部半島などからよく見ることができます。
写真は八重岳からの眺め。
村名はそのまま「伊江村」となります。
本部港からフェリーで30分ほどで、日帰り可能な離島として人気。
しかし「伊江島」は基地の島としても有名で、米軍基地が島の35%を占めています。
東京在住の造形美術家・牛山リコさんが2年以上の期間をかけて製作しました。
宮古島で採れた巨大なシャコ貝や立派なホラ貝、タカラ貝、スイジ貝、クモ貝、サザエ等々が利用されています。
他にも赤瓦やガラス玉などが使われていますが、これらの材料はたくさんの市民から無償で提供されたものだそうです。
「あたらか」とは、宮古方言で「大切な」「もったいない」という意味だそうです。
高さは本体が約1.5メートル、台座を含めると約2.5メートルに達するほど大きいので探す間もなく目立つ存在のシーサーです。
久米島町は、沖縄県で5番目に大きい久米島と、その周辺の離島(奥武島、オーハ島、鳥島、硫黄鳥島)からなります。
2002年には、これまでの具志川村と仲里村が合併して久米島町が誕生しました。
人口は8,300人ほどで、農業は主にサトウキビ。
ダイビングなどの観光地としても成り立っています。
今年は優勝した東北楽天ゴールデンイーグルスのキャンプ地として盛り上がりました。
久米島町へのアクセスは、那覇空港からの飛行機や泊港からのフェリー(4時間ほど)があります。
「紬」は「紡織り」の略で、蚕繭から糸を取り出し、よりをかけて丈夫な糸に仕上げて織るものです。
1609年薩摩に侵略を受けてから、人頭税が課せられ、貧しい人々はお米の代わりに紬を納めていたそうです。
その歴史を「ユイマール館」では知ることができ、染料の植物や作業工程が詳しく展示されています。
反物やバッグ、服、財布などを販売しています。
また「ユイマール館」では、バンダナやコースターなど久米島紬の体験が出来ます。
「久米の五枝[ごえ]の松 下枝ど枕 思童無蔵や 我腕まくら」
久米の五枝の松を湛えた琉歌の石碑です。
歌意は「久米の五枝の松は下枝を枕にしているが、愛しい彼女は私の腕を枕に寝る」と謡っています。
「五枝の松」は、国の天然記念物に指定されています。
「下枝を枕にしている」と、歌にもあるように、地面を這うように成長しているのが特徴です。
リュウキュウマツは普通、こういう成長をすることは無いので、とても貴重な松として讃えられています。
「紬」は「紡織り」の略で、蚕繭から糸を取り出し、よりをかけて丈夫な糸に仕上げて織った絹織物のことです。
沖縄の織物の素材をみると、芭蕉・芋麻・木綿・絹がありますが、絹織物は首里を除くほとんどが、久米島で織られていました。
それが「久米島紬」です。
中国から漂流した人から学び、その後、越前や薩摩からの使いによって、徐々に進歩していきました。
1900年代に入り、紬織物の指導を中心とした実業補修教育を施し、両村の子女を養成するようになりました。
「久米島紬」の最盛期には、当時の貧しい村民の生活を支えていたそうです。
1977年には「久米島紬」の技術が沖縄県指定無形文化財(保持団体)に指定されました。
その名の通り、美しいフクギ並木が、久米島にあります。
久米島を一周する道路にあるので、すぐ見つけられるでしょう。
高さが約6m、幅約3mのフクギが、道路の真ん中に40mにも及んでそびえたっています。
1756年に植えたそうで、樹齢は200年以上にもなるのだとか。
周辺は民家になっているので、通る際は気をつけましょう。