瀬底島にある瀬底小学校は、1890年2月に創設され、「瀬底簡易小学校」と呼ばれていました。
当初は男子のみ25名の生徒だったそうです。
時代の流れに沿って「本部尋常小学校瀬底分校」と改称されたり、「瀬底国民学校」となったりしました。
6・3・3の学制改革により瀬底初等学校に中等学校併設となり、1972年に移転して翌年の創立60周年を迎えます。
最初に建てられた瀬底小学校は、県道172号線沿いにある「瀬底小学校発祥の地」石碑がある場所でした。
1972年に移転した後は現在の場所(本部町字瀬底693)となります。
瀬底小学校発祥の地(石碑)の地図はこちら。
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1871年、宮古島住民43人を含む54人の県民が乗った宮古島の年貢運搬船が、那覇港から出発後に遭難し、台湾に漂着。
乗務員66人が山間部の牡丹郷に迷い込み、台湾の先住民に54人が殺害されるという事件が起きました。
那覇市の護国寺の入り口に「台湾遭害者の墓」はあります。
この墓には44人の遺骨が納骨されているそうです。
政府は、この琉球漂流民殺害事件に対して、清朝に厳重に抗議しましたが1873年には、台湾に漂着した備中国(現在の岡山県)柏島村の船の乗組員4名が略奪を受ける事件が発生したため、台湾への出兵を決めたそうです。
そのため日本の台湾侵攻のきっかけにもなった墓といわれています。
台湾遭害者之墓の地図はこちら。
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「護国寺」の裏手にある公園内に、「戦没新聞人の碑」という碑があります。
その名の通り、沖縄戦で命を落とした新聞記者の碑です。
「1945年春から初夏にかけて沖縄は戦火に包まれた。砲煙弾雨の下で新聞人たちは2カ月にわたり新聞の発行を続けた。これは新聞史上例のないことである。その任務を果たして戦死した14人の霊はここに眠っている」と説明されています。
当時の沖縄新報、朝日新聞、毎日新聞の皆様のお名前が並べられています。
発行は45年3月下旬から5月22日。
新聞といってもタブロイド判2ページですが、毎日兵隊や警察官、男子師範生徒らによって戦火をくぐって配達されたそうです。
戦没新聞人の碑の地図はこちら。
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那覇市護国寺内にある「ベッテルハイム博士居住之跡」碑の隣に、「仲地紀仁顕彰の碑」が建立されています。
仲地紀仁は、医学者の長男として生まれ、26歳の時には内科、眼科を学び、薩摩で外科を学ぶなど、琉球王朝から表彰されるほどの医術を身につけました。
ベッテルハイム博士は、仲地紀仁の腕を見込み、牛痘種痘(予防接種の一種)を伝授しました。
当時、薩摩の政府から西洋人との交流を禁じられていたため、仲地紀仁は波の上の洞窟の中で教えを受けたそうです。
仲地紀仁顕彰の碑の地図はこちら。
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1846年に英国国教会の宣教師として琉球に訪れたベッテルハイムは、現在の那覇市若狭にある護国寺に住んでいました。
1854年まで伝道と医療、そして新約聖書を琉球語、さらに和訳聖書へと翻訳していきました。
当時、イギリスと琉球の国交が無かったため、琉球政府の迫害を受けながら宣教に取り組んだそうです。
護国寺は琉球最古の寺院として知られ、護国寺内には「ベッテルハイム博士居住之跡」の顕彰碑が建立されています。
ちなみに小説「テンペスト」の主人公・真鶴が、数カ国の外国語を学んだのはベッテルハイム博士です。
ベッテルハイム博士居住之跡の地図はこちら。
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「道の駅 豊崎 豊見城市観光プラザ てぃぐま館」は、その名の通り「道の駅 豊崎」の敷地内にあります。
2013年7月にオープンしたばかりで、沖縄の伝統工芸品の体験学習を行なったり、展示、販売まで行なっています。
伝統工芸品とは、琉球漆器、やちむん、紅型、琉球ガラス、木工品などです。
また、ウージ(さとうきび)染めの織物の体験も可能。
ちなみに「てぃぐま」とは、沖縄の方言で手先が細かい、器用と言う意味です。
営業時間10時~19時。
年中無休で駐車場完備。
道の駅 豊崎 豊見城市観光プラザ てぃぐま館の地図はこちら。
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浦添に住む奥間大親という貧しい農民が、森の川で水浴びをしている天女と出会い、羽衣を隠して帰れなくなった天女を家につれ帰りました。
その後二人の間に授かった一男一女が、遊んでいる際に羽衣を見つけ、天女は天に帰ります。
ここまでは童話の羽衣伝説と同じ内容ですが、森の川の羽衣伝説には続きがあります。
奥間大親の息子は、その徳をみこまれて勝連按司(かつれんアジ)の娘と結婚することになります。
息子は日本商人から鉄を買い求めて農具をつくり、村の百姓に分けあたえました。
村は豊かになり、国中に彼の名声がとどろき、国民の信望を得て国王となったそうです。
その息子こそが察度王(さっとおう)で、中国と朝貢貿易を行なった最初の琉球国王なのです。
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「久米島紬」は、久米島で織られている絹織物です。
「紬」は「紡織り」の略で、蚕繭から糸を取り出し、よりをかけて丈夫な糸に仕上げて織るものです。
1609年薩摩に侵略を受けてから、人頭税が課せられ、貧しい人々はお米の代わりに紬を納めていたそうです。
その歴史を「ユイマール館」では知ることができ、染料の植物や作業工程が詳しく展示されています。
反物やバッグ、服、財布などを販売しています。
また「ユイマール館」では、バンダナやコースターなど久米島紬の体験が出来ます。
久米島紬「ユイマール館」の地図はこちら。
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「紬」は「紡織り」の略で、蚕繭から糸を取り出し、よりをかけて丈夫な糸に仕上げて織った絹織物のことです。
沖縄の織物の素材をみると、芭蕉・芋麻・木綿・絹がありますが、絹織物は首里を除くほとんどが、久米島で織られていました。
それが「久米島紬」です。
中国から漂流した人から学び、その後、越前や薩摩からの使いによって、徐々に進歩していきました。
1900年代に入り、紬織物の指導を中心とした実業補修教育を施し、両村の子女を養成するようになりました。
「久米島紬」の最盛期には、当時の貧しい村民の生活を支えていたそうです。
1977年には「久米島紬」の技術が沖縄県指定無形文化財(保持団体)に指定されました。
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伝統的な沖縄赤瓦は、本葺瓦の系統に属する瓦で、平瓦に相当する女瓦と、丸瓦に相当する男瓦とからなります。
まず女瓦を並べて、その左右の継ぎ目を覆うように男瓦を被せ、台風などの強風にも耐えるように瓦どうしの隙間を漆喰で塗り固めます。
このため、赤瓦を用いた屋根は、瓦の赤と漆喰の白とのコントラストが際だつ外観が特徴となっています。
琉球地方の赤瓦は、当初は灰色が主流で、18世紀に入ってから現在のような赤色が使われ始めます。
しかし、一般の住宅では禁止されており、最初の頃は首里城正殿や王府・役所などの建物にしか使われませんでした。
一般住宅への赤瓦禁止令が解かれ、広く普及するようになり、屋根の上にシーサーを置くのもこれ以降だと言われています。
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