仲間家 in 大家
沖縄そば屋で有名な「大家(うふやー)」の敷地内に「仲間家」はあります。
案内看板による説明は次の通り。
「この家は、宜野座村の惣慶集落に大正5年頃に建築された民家を移築したものです。
当時の屋号は「中原グヮー(ナカバルグヮー)」と呼ばれておりました。
「ナカバルグヮー」とは本家が「ナカバル」、「グヮー」が子供の意味です。」
他の民家と同じく、昔ながらの瓦屋根です。
沖縄そば屋で有名な「大家(うふやー)」の敷地内に「仲間家」はあります。
案内看板による説明は次の通り。
「この家は、宜野座村の惣慶集落に大正5年頃に建築された民家を移築したものです。
当時の屋号は「中原グヮー(ナカバルグヮー)」と呼ばれておりました。
「ナカバルグヮー」とは本家が「ナカバル」、「グヮー」が子供の意味です。」
他の民家と同じく、昔ながらの瓦屋根です。
名護市にある沖縄そば屋さん「大家(うふやー)」の敷地内にある「真謝(まじゃ)家」。
この家は、大宜味村の上原集落に大正十年頃に建築された民家を移築したものだそうです。
民家の案内看板によると、当時の屋号は「上前」(ウエヌマーランガー)。
「ウエヌ」とは、高台を意味しており、「マーラン」とは、「やんばる船」のこと。
「ガー」とは川を意味しております。
昔やんばる船(マーラン)が川(ガー)に水を汲みにきたその高台(ウエヌ)に家があったことから、そう呼ばれていたそうです。
この看板は英語でも表記されています。
その敷地内にある「新城家(あらぐすくけ)」。
民家の前にある看板を紹介します。
「この家は、国頭村の謝敷部落に昭和8年に建築された民家を移築したものです。
当時の屋号は「カーヌメーヤー」と呼ばれておりました。「カーヌメーヤー」とは「川の前の家」という意味で、新城家が川の前にあった為このような屋号でよばれておりました。
建築に使われた木材は、部落内の謝敷山から採れた樫の木が使われています。」
「名護博物館」は、名護・やんばるの昔の人々の暮らしや文化を学ぶことが出来る博物館で、1984年にオープンしました。
名護の歴史はもちろん、昔の子供の遊び道具、暮らしの道具を展示したり、動物の剥製、昆虫の標本、また体験活動なども頻繁に行われています。
世界中の博物館・美術館をインターネットで見ることができる「Google Art Project」によって、館内を見ることができるそうです。
毎月のギャラリー展示は「名護博物館」のHPにて。
入館料は大人150円、大学生100円、小中高生50円。
1873年、ドイツ商船が宮古島の宮国沖で台風のため座礁してしまいます。
宮古島の人々が乗組員たちを助け、手厚く看護したことから、それを知った当時のドイツ皇帝は宮古島の博愛精神に感動しました。
後に現・平良港に博愛精神を称賛した石碑を建てます。
さらに建碑60年後の1936年には、宮古郡教育部会や外務省、日独親善団体の協力で遭難現場であるンナト浜に当時の近衛文麿総理大臣直筆の「独逸(ドイツ)商船遭難の地」の碑が建てられました。
その碑は現在うえのドイツ文化村にあります。
沖縄芝居の振興に尽くした、先人の功績をたたえ2012年に建立されました。
戦前戦後の約200人の名前が刻まれています。
建立に先立ち、沖縄芝居の先達を末永く奉慰顕彰し、今後の沖縄芝居の発展を祈念して、「沖縄芝居顕彰碑承護之会」が設立。
毎年4月8日を「芝居の日」とし、「沖縄芝居先達 奉慰顕彰祭」が催されています。
当時の除幕式では、「芝居の碑」らしく、祝いの席には欠かせない演舞「かぎやで風」が披露されたそうです。
国道58号線沿いの那覇商工会議所前に、中国の春秋時代の思想家・孔子の像が建てられています。
これは1974年に台北市から寄贈されたもの。
台座の銘板には、「大成至聖先師 孔子造像」とありました。
孔子とその4人の弟子(顔子、子思、曾子、孟子)を祀る「孔子廟」が、若狭にあるのですが、第二次世界大戦で破壊されるまでは、この孔子像がある場所が本来の跡地のようです。
国道沿いを車で走っていてもすぐに見つけられるほどの大きさなので、目にした方は多いと思います。
那覇市には上天妃宮と下天妃宮の二つがありましたが、現在残っているのは、この上天妃宮跡のみです。
上天妃宮が造られたのは、そこにかけられてあった鐘に記されていた年号から、15世紀半ば頃と考えられています。
「天妃」とは皇帝から送られた称号のことで、航海安全の守護神「媽祖(まそ)」とあがめられた女性のこと。
中国南部の沿岸地方で広く信じられていて、琉球にやって来た中国人により、広められて行ったそうです。
石門の周りは琉球石灰岩で造られた石積みと石段。
近隣には小学校、住宅街の中に、ここだけ雰囲気が違うスポットです。
その後ろには昭和天皇が作ったという2首が、壁面にありました。
「わが国は神のすゑなり神まつる昔の手ぶりわするなよゆめ」
「たらちねの親に仕へてまめなるが人のまことの始なりけり」
この銅像は、明治百年を記念して作られたということです。
銅像の台には、明治元年に新政府を設立された時の基本方針「五箇条の御誓文」が刻まれています。
1 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
2 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
3 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
4 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
5 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
「堂小(ドゥグワー)」とは、久米の東寿寺小堂付近にあった住宅のこと。
久米村の下層階級の人がここに暮らし、滋養薬となるカエルやコイなどを売って生計を立てていたそうです。
つまり、この屋敷は久米村の生活困窮者を救済するための施設だったそうです。
写真の石碑には「堂小」の下に小さく「東壽寺跡」とあります。
東寿寺は波上の護国寺の末寺(本寺に従属する寺)で、頼慶という僧が法を説いていたとされています。