防空監視哨跡 in 山巓毛公園
標高25mと高台になっていて、見晴らしもいいこの場所は、かつて敵機を発見するための「防空監視哨」が置かれていました。
レーダーが発達していなかった戦時中、敵機来襲を目で見て捕らえる重要な役割を担っていたのが「防空監視哨」で、沖縄県内の11か所に設置されました。
現在はその跡とみられる八角形の基礎部分が残されています。
拝所となっているそうです。
標高25mと高台になっていて、見晴らしもいいこの場所は、かつて敵機を発見するための「防空監視哨」が置かれていました。
レーダーが発達していなかった戦時中、敵機来襲を目で見て捕らえる重要な役割を担っていたのが「防空監視哨」で、沖縄県内の11か所に設置されました。
現在はその跡とみられる八角形の基礎部分が残されています。
拝所となっているそうです。
「山巓毛(さんてぃんもー)」は標高約25メートルの石灰岩丘陵です。
昔の沖縄は、14世紀頃には三山時代となり、北部の北山、中部の中山、南部の南山に分かれていました。
1429年、南山の最後の王・他魯毎(たるみい)が、中山王・尚巴志(しょうはし)の攻撃を受け、妻子ともに自害した場所です。
沖縄戦当時は敵機を発見するための「防空監視哨」が置かれたり、国旗掲揚台があったり、戦跡としても名が知られている場所です。
現在では、糸満ハーレー(海神祭)のときに、この場所でスタートをつげる合図の旗が振り降ろされます。
琉球王国時代、松尾山は久米村の所有地でした。
1899年の土地整理事業で県の所有地となった後から、尋常小学校、病院、裁判所などが配置されていきました。
1944年の沖縄戦で松尾山やそこにある施設は一部焼失し、1977年の公園整備事業にて、現在の松山公園・福州園が整備されました。
石碑は、現在芝生の広場となった場所の端っこにあります。
松山公園内には、様々な石碑がありますが、これもそのうちの一つ。
「松山尋常小学校・国民学校」がありました。
松山尋常小学校は1902年に開校、その後国民学校として名前を変更します。
終戦後、1951年(昭和26)には小学校・病院跡地に那覇商業高等学校が開校しました。(写真の石碑の後ろは那覇商業高等学校の校舎です)
はるか昔、中国の福建から沖縄に移住してきた人々がいました。移住者たちは、「久米三十六姓」と呼ばれています。
当時の琉球において、先端文明をもった移住者である「久米三十六姓」の政治的・経済的な地位は極めて高く、その末裔は今もなお、沖縄で大きな影響力を持っています。
彼らの住む「久米村」は当初城壁で覆われ、対外貿易の拠点・要塞となり、1609年に薩摩藩が琉球に侵攻した際には強く抵抗したそうです。
琉球政府の高官を務めた「久米三十六姓」の子孫は数多く、鄭迥氏や蔡温氏はいずれも、三司官にまで出世しました。那覇市牧志には今でも、「蔡温橋」という名前の橋が残っています。
「県病院」「県立病院」と呼ばれ、当時は県内唯一の総合病院だった「沖縄県立沖縄病院」。
最初は西村(現在の那覇市西)に出張所として医療をしていました。
1878年には医局を置き、1885年には下の天妃宮に移転して初めて病室を設け、入院患者を収容。
1901年に、写真の石碑が置かれている場所、那覇市松山に移転したそうです。
1944年10月10日の空襲で建物が焼失し、1945年には自然閉院。
現在は、公園と那覇商業高等学校の敷地になっているようで、商業高校では病院にまつわるうわさ話があるとかないとか・・・。
太平洋戦争での戦禍によって、松山公園の敷地内にあった「沖縄県立第二高等女学校」は1944年10月10日に校舎が全焼しました。
民家などで分散授業が行われましたが、戦争はさらに激しくなり、学校としての機能は成り立たず、戦後も復興されることなく自然廃校となりました。
写真の像は「白梅の乙女たち」の像。
創立80年の節目に、元職員、同窓生、家族の協力を経て、母校が存在した証の像が建てられました。
沖縄の方言で「カー」とは井戸のこと。
近くにユウナの木があったことから、「ユウナの井戸」という意味でつけられたようです。
昔の貴重な水資源で、多くの人が飲み水に利用したそうです。
1933年に、当時念願だった水道が敷かれ、以降使われなくなりましたが、その後も水への感謝として拝まれているそうです。
那覇市松山公園内にある顕彰碑は、沖縄発祥の空手を広めた二人の功績を讃えて建てられました。
東恩納寛量は「那覇手」の祖といわれ、明治期を代表する空手家(当時は唐手と書く)です。
「那覇手」とは空手道の三大系統の一つで、「首里手」「泊手」と並びます。
剛柔流の開祖である宮城長順の師で、顕彰碑には並んで名前が刻銘されています。
顕彰碑には、全日本空手道剛柔流会藩士深利勝之会長はじめ20数名の幹部会員の名前が奉納記帳されています。
「この家は、宜野座村の惣慶集落に大正の初期頃に建築された民家を移築したものです。
当時の屋号は「前門(メージョー)」と呼ばれておりました。」
民家の前の看板に解説された看板があります。
沖縄には昔ながらの古民家が各地にあり、その中には移築されたものも多いです。
大家(うふやー)の他には「琉球村」や「おきなわワールド」などにも古民家が移築されています。