himeyurinotou-kaisyu.jpg今日で5月が終わります。

来月は、沖縄では6月23日に慰霊の日という歴史的イベントがあります。

それに向け、老朽化が進んでいるひめゆりの塔を全面改修するようです。

ひめゆりの塔は、激しい沖縄戦で亡くなった、ひめゆり学徒隊ならびにその教師らの鎮魂・悼むために1957年に建立されました。

今回が初めての改修で、戦没者の氏名を刻んだ銘板には、新たに判明した200人以上の戦没者の追加刻銘がされるそうです。

ひめゆりの塔の裏手にある「ひめゆり平和祈念資料館」が開館してから20周年の今年、同館を運営する財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会が、改修の実施を決めました。

6月23日の慰霊の日までに完成する予定だそうです。

ひめゆりの塔の地図はこちら。

sisimai.jpg獅子舞は、沖縄に限らず日本全国でそれぞれの文化として広まっています。

元々は中国から伝わったものなので、もちろん沖縄にも存在します。

写真は那覇空港の荷物受け取りロビーにて。

獅子舞を担う後継者不足などの問題もあり、県内各地域では、保存と普及のために各イベントや行事を催しています。

県内の主な獅子舞保存会は、佐敷町をはじめ、金武町金武、西原町我謝、中城村津覇、東風平町志多伯、今帰仁村謝名の六地域。

他県との交流も盛んに行われているようです。

座を清め、邪気をはらう意味が込められているので、夏になると豊年祭や旧盆のエイサーに混じって獅子舞が踊っている様子も見かけることができます。

那覇市民会館

4月 29, 2009

nahasiminkaikan.jpg那覇市民会館は、まだアメリカ統治下だった1970年10月に建設され、当時、県内唯一の本格的文化施設でした。

大ホールは収容人数1668。

音楽、舞踊、演劇等の公演や、その他大規模な講演会・集会などイベントが盛んに催されています。

中ホールは、800人以下の集会・展示会・講習会などの会場。

会議室は各種会議等の会場として利用されています。

1972年5月15日の沖縄返還の際、当時の佐藤栄作首相が参加して返還式典の会場となりました。

周辺には与儀公園、県立図書館が隣接しています。

開館時間は9時~18時。

那覇市民会館の地図はこちら。

utina-guti-gojuon.jpg「あ・い・う・え・お・か・き・・・・」の五十音表は、誰もがどこかしら目にしたことがあるでしょう。

それの、うちなーぐち(沖縄方言)バージョンを、那覇市内のそば屋さんで見付けました。

「え・・・エイサー」、「さ・・・さんしん」、「し・・・シーサー」など、沖縄文化を表現するもの。

「あ・・・てぃーだ(あさひ)」、「す・・・すば(沖縄そば)」、「ひ・・・ひーじゃー(やぎ)」など、沖縄の方言で表現したもの。

他にも、うちなーぐちでの数の数え方も載っていました。

1(てぃーち)2(たぁーち)3(みぃーち)4(ゆぅーち)5(いちち)6(むぅーち)7(ななち)8(やぁーち)

9(くくぬち)10(とぅー)。

琉球王朝時代の本や歴伝には、「按司(あじ)」というものがよく出てきます。

この「按司」とは、地方の支配者のことで、今でいう市町村長のようなものですが、れっきとした称号なので王族の王子や按司の長男などが就きました。

位は王または王子の次の位階になります。

『この琉球に天帝子という人物が住み着き、三男二女をもうけた。長男は天孫といい、国君(王)の始めとなり、次男は按司(諸侯)の始めとなり、三男は百姓(平民)の始めとなった。』という神話もあります。

按司たちは、沖縄各地でそれぞれのグスクを拠点とし、武力を拡大させながら小国家を作っていきました。

14世紀になると、「今帰仁を中心とした北山」「浦添を中心とした中山」「大里を中心とした南山」の三大勢力が出来上がります。この時代を「三山時代」といいます。

平和祈念公園内に、「平和の丘」というものがあります。

アーチ型で、広場から見てすぐわかります。

「平和への強い意志」「揺るぎない誓いの精神」を表した黒御影石で、奥に進むと天井から「平和の光」が差し込む造りになっています。

丘の下にはトンネルを掘り、沖縄で“ガマ”と呼ばれる自然洞穴に見立てられています。

写真を撮影した日にガマを覗くと、花が添えられていました。

1995年に「平和の礎」が完成したのに対し、「平和の丘」は2001年に建てられました。

平和の丘(平和祈念公園)の地図はこちら。

平和祈念公園内の、平和祈念資料館の外に、米軍のキャタピラや旧日本軍の魚雷が展示されています。

戦争時に使用されたもので、宜野湾市にて発見されたそうです。

沖縄不発弾等対策協議会が、2007年度の1年間だけで781件、およそ25トンの不発弾が処理されたと発表しました。

今もなお約2300トンが地中に埋まっていると推測され、国や県、各市町村が不発弾処理の負担を強いられている状況です。

最近では、南風原町で児童が不発弾と知らず校内に持ち込んだことや、糸満市で水道工事中に接触爆発した事件などが取り上げられました。

沖縄といえばキレイな海と青い空を思い浮かべる人は多いですが、戦争時の爪跡が今でも多く残っていることも事実なのです。

米軍のキャタピラ(平和祈念公園)の地図はこちら。

写真は沖縄戦で殉職した島田叡(あきら)知事と県職員453名を祀る慰霊塔です。

1951年に、旧県庁の生存者と県民によって建立されました。

島田氏は兵庫県出身で、大阪府の内務部長を務めていましたが、1945年に沖縄県知事に打診されました。1945年は米軍が慶良間諸島をはじめ沖縄本島上陸した年でしたが、周囲の反対を押し切って受諾したと言われています。

死を覚悟して沖縄へやってきた島田氏は就任後、沖縄駐留の軍との関係改善に努めたり、前任者のもとで遅々として進まなかった北部への県民疎開、食料の分散確保など多くの問題を処理していきました。

こうした姿勢や人柄が、県民の信頼を深めていったようです。

1945年6月、同行していた県職員や警察を解散させ、摩文仁の壕を出て以来、消息を絶ちました。今日まで遺体は発見されていませんが、元兵士による証言で「自決した」可能性もあるようです。

島守之塔(平和祈念公園)の地図はこちら。

平和祈念公園には、沖縄平和祈念堂もあります。

恒久平和を祈念して平和祈念公園内に建造された高さ45m、七角形の堂塔。

塔の中には、沖縄出身の偉大な芸術家山田真山画伯が全戦没者の追悼と世界平和を願う沖縄県民の心を一身に担い、晩年の全生涯を捧げて制作したといわれる「沖縄平和祈念像」が置かれています。

高さが約12メートル、幅約8メートルの人間の祈りの姿の像で、台座に想像上の花や蛟竜を配しています。

6つの花弁は、人類が日常生活を営んでいる6つの大陸を意味しているそうです。

塔の周囲には平和の鐘や絵画美術館、瞑想の森、清ら(ちゅら)蝶園などがあります。

清ら蝶園では、羽を広げると13cmに達する国内最大級の蝶「オオゴマダラ」を飼育しており、6月23日の慰霊の日に、戦没者の鎮魂と世界平和の願いを込めて空へ放たれることになっています。

沖縄平和祈念堂(平和祈念公園)の地図はこちら。

平和祈念資料館は、平和祈念公園の中にあり、様々な資料を展示しているところです。

常設展示の第一室では「沖縄戦への道」として、沖縄戦に至るまでの沖縄の歴史や戦争がなぜ起こったのかを展示しています。

そこから第二室、第三室は戦時中の被災状況や防空壕での生活を復元した展示などが続き、第五室では戦後の収容所生活、27年間の米軍統治、復帰運動、平和創造を目指す沖縄を展示。

まさに、沖縄戦の始まりから戦後の住民生活までを、ほぼそのままにわかりやすく紹介されています。

平和学習の一環として、修学旅行生も多く訪れ、沖縄から「平和の発信」として中心になっているのが平和祈念資料館なのです。

平和祈念資料館(平和祈念公園)の地図はこちら。