okinawa-hatuon.jpg沖縄の地名、苗字には、なかなか読みづらい漢字が並んでいます。

「北谷」と書いて「ちゃたん」。

「清ら」と書いて「ちゅら」。

「兄弟」と書いて「いちゃりばちょーでー」。そして、「沖縄」と書いて「うちなー」。

ウチナーグチは、a(あ)、i(い)、u(う)の3母音からなり、本土方言のe(え)とo(お)は下記の通り変化します。

e(え)→i(い)に変化

o(お)→u(う)に変化

そして「き」又は「ぎ」→「ち」又は「ぢ」に変化するという、琉球方言の特徴をもっています。

これらを踏まえると、沖縄の結婚披露宴で定番となっている琉球舞踊「かぎやで風」は、「かぢゃでぃふう」と発音することになります。

iso-kouen.jpg浦添市伊祖にある伊祖公園。

敷地内には伊祖城跡があり、緑があふれる歴史的な公園です。

広めの駐車場も完備されていて、入りやすい入り口。

遊具もたくさんあるので、休日には家族連れで楽しめる場所となっています。

中山王になった英祖王生誕の地で、「伊祖」に由来されているとも言われています。

公園内にはヒカンザクラが植えられていて、2月中旬頃から咲き始めます。

桜公園とも呼ばれていたようです。

歴史的な部分と、整備された公園と、両方楽しめる公園です。

伊祖公園(浦添市)の地図はこちら。

牧港テラブのガマ

8月 25, 2009

makiminato-terabu-gama.jpg「牧港テラブのガマ」は、浦添市の国道58号線近くにあります。

大昔、舜天王という王がいて、それが源為朝の子だという伝説があります。

保元の乱で敗れた源為朝は流刑になり、漂流した先が琉球の今帰仁。

そこから南部へ移り住み、大里按司の妹とむすばれて男の子をもうけましたが、やがて妻子を残し、本土へと帰りました。

その妻子が頼朝の帰りを待ちわびたところが牧港のテラブのガマです。

これが為朝伝説です。

牧港テラブのガマの地図はこちら。

沖縄の伝統行事

8月 9, 2009

denntougyouji.jpg沖縄には昔から多くの行事があります。

それらは全て旧暦で行われ、「旧正月」から新年が始まります。

「火の神」とは、家を守る神で、台所にまつられています。旧暦12月24日に年末に昇天し、その年の各家庭の出来ごとを神様に報告して、翌年の旧暦1月4日に迎えます。

「二十日正月」とは、正月終わりのことで、那覇市の辻町でジュリ馬祭りを行います。

他にも「彼岸」では仏前にご馳走を供えたり、墓参りをして先祖と食事をともにする「清明祭(シーミー祭)」など、あの世とつながっている伝統行事がたくさんあります。

また、「カジマヤー」は数え年97歳の長寿者を風車(カジマヤー)で祝うことです。

老齢になると、童心にかえってカジマヤー(風車)で遊ぶからという言い伝えからきています。

okinawasen-tijouru-to.jpg今日は、広島の原爆記念日です。

第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分に、アメリカ軍が原子爆弾を日本の広島県広島市に対して投下しました。

同じ年の1945年、広島に原爆が投下されるより早い3月26日早朝、アメリカ軍が沖縄県の慶良間諸島に上陸。ここに、沖縄の地上戦が始まりました。

写真は少し見えづらいですが、アメリカ軍の上陸日付と進攻方向です。

アメリカ軍の沖縄上陸の目的は、日本本土への出撃基地にすることといわれています。

時はさらにさかのぼり、沖縄の地上戦が始まる前の1945年の2月、天皇は重臣らと意見を交わしました。

戦争の早期終結を訴える者もいましたが、多くの意見が「戦争を有利に終結させよう」と軍の意見を支持し、早期終結には至りませんでした。。

この時点で天皇や重臣らが戦争終結を決定していれば、沖縄の地上戦も、広島・長崎の原爆投下もおきなかったのです。

琉球漆器 糸満店

7月 23, 2009

ryuukyusikki-itoman.jpg「琉球漆器」とは、沖縄の伝統工芸の一つです。

15世紀初めに製作が始まったと考えられていて、その技術、芸術さが高く評価されて今でも贈り物などに選ばれる品物です。

中国からの影響が大きかった琉球時代、「琉球漆器」も中国の技法からヒントを得た物で、さらに独自の技法を生み出し、沖縄独自の伝統工芸が完成しました。

また、「琉球漆器」はデリケートな工芸品で、直射日光はもちろん、電子レンジも不可。

食器洗い機、乾燥機に入れたり、スポンジやタワシでごしごしこするもの禁物です。

写真のお店「株式会社 琉球漆器」は、本社を豊見城市の真玉橋に置き、観光ルートである糸満市にも糸満店をオープンさせました。

創業100年の歴史を持ち、「琉球漆器」の老舗となっています。

琉球漆器 糸満店の地図はこちら。

マムヤの墓

7月 10, 2009

higasihennazaki-haka.jpg今日は、東平安名崎にある、「マムヤの墓」を紹介します。

駐車場から歩いて灯台に向かう途中、左手に大きな岩のような、洞窟のようなものがあります。

これが「マムヤの墓」です。すぐ横には説明文もありました。

昔、マムヤという絶世の美女が野城按司と恋仲になりました。

しかし野城按司には妻子がいて、結局マムヤは捨てられることになり、按司の心変わりを嘆いたマムヤは平安名崎の絶壁から身を投じました。

悲嘆にくれたマムヤの母親が、「再び、この村に美人が生まれないように」と神に祈ったそうです。

いつ頃からか、この巨石がマムヤの霊を弔う「マムヤの墓」として言い伝えられるようになりました。

平成3年4月9日に、宮古島市の指定史跡となりました。

マムヤの墓の地図はこちら。

宮古方言

7月 2, 2009

miyakohougen-tandeliga-tand.jpg沖縄県内の中でも、各地方ごとに方言が少し違います。

「いらっしゃい」という意味の「ンミャーチ」は、空港でも見かけることができるので知っている人も多いはず。

写真の看板は、某ホテルの駐車場出口にありました。

「ありがとう」という意味の「タンディガータンディ」。

他にも「とっても」という意味の「ダイズ」、「どこいくの?」の「ウザンカイガ」、「ワッ」と驚いた時の「アガエッ」。

方言に加え、宮古地方独特の訛りもあるので、初めて聞いた人にとっては、どこかの国の言葉を話しているように聞こえるようです。

「アパラギ」という方言は、宮古地方では「美しい」という意味で、沖縄本島地方では「チュラ」と言います。

このように、少しどころか全く違う方言もありますので、比べてみると面白いかもしれません。

人頭税石

6月 28, 2009

jintouzeiseki.jpg1609年、薩摩の琉球侵略により、琉球王府は財政に苦しみ、その対策として宮古・八重山の両地方に限り1637年から人頭税を課すことにしました。

15歳で背丈がこの写真の石(143cm)以上になると、男は主に粟、女は上布を納めるよう義務づけられたのです。

それが「人頭税」で、課税の基準となる石が「人頭税石(じんとうぜいせき)」。

村の収穫量・身分・性別・年齢によって、税の細かい等級が決められ、人頭税の負担は、地位が低い者に多く割り振られるようになって、厳しい税となり、身分や社会的地位によっては重い負担となったそうです。

その後、明治時代になり琉球処分が行われた後も続いていましたが、廃止運動によって1903年に廃止されました。

人頭税石は宮古島平良字荷川取にあり、長い間人々を苦しめた悪税として今も伝承されています。

isihiya-hasi.jpg石火矢橋は、方言でイシバーシ。豊見城城跡のふもとを流れる饒波川に架かっています。

一見どうってことのない、小さな橋ですが、琉球王国時代は重要な役割を担っていたそうです。

当時、倭寇の侵略に苦しんでいた琉球王国時代。外敵の侵入に備えるべく、首里城を出た軍隊を、砦となる屋良座森城まですみやかに派遣しなくてはなりませんでした。

そこで活躍したのが、石火矢橋を含む真珠道と呼ばれる道でした。

石火矢橋はもともと木の橋で、1694年に洪水で流された為、1697年に石橋に改築。

洪水の被害を軽くする為、橋の脚に三角形の潮切を設けています。

石火矢橋の地図はこちら。