「トーチカ」とは、ロシア語で、鉄筋コンクリート製の防御陣地を指す軍事用語です。
嘉数高台公園は、沖縄戦時には激戦地となった場所で、日本軍が使用した「トーチカ」が今も残されています。
大きさとしては小規模なもので、嘉数高台公園にあるものは、コンクリート製のトーチカから続く洞窟、トンネルなどがあります。
1945年4月1日、北谷海岸から上陸した米軍にほとんど抵抗しなかった日本軍は、このトーチカで待ち伏せして、爆弾を抱えて体当たりする作戦で米軍戦車30台のうち22台を撃破しました。
24日の陥落までに、米軍の戦死者の大半はこの「嘉数高台の激戦」で出るほどだったそうです。
太平洋戦争後、沖縄はアメリカの統治下におかれ、日本本土との行き来もパスポートが必要でした。
通過単位も「円」ではなく「ドル」。
1972(昭和47)年5月15日、戦後27年間に及んだアメリカの統治が終わり、沖縄が日本に復帰することになりました。
パスポートも不要でドルから円の生活に変わりました。それまでの交換レートは1ドル=360円。
復帰時には変動相場制への移行で1ドル=305円。
日本政府の補償などもありましたが、沖縄全体が受けた損失は大きいものでした。
今のおじぃ、おばぁからはドル生活の話を聞くこともできるでしょう。
今から6年前の2004年8月13日午後2時15分頃、アメリカ軍普天間基地所属の大型輸送ヘリコプターが訓練中にコントロールを失い、沖縄国際大学1号館北側に接触、墜落、炎上しました。
沖縄国際大学の近くには、今ニュースでも取り上げられている普天間基地が隣接しています。
さらに事故直後、アメリカ軍が現場を封鎖し、大学関係者、日本の行政・警察を一切立ち入れなかったことにも非難が集中。しかし、日米地位協定の壁に阻まれて、現在も全容解明に至ってないそうです。
この事件で、辺野古沿岸への移設、つまり県内移設に反対の意見が強まったといわれています。
沖国大には焼け焦げた壁が一部残されていて、その当時の様子がパネルで説明されてあります。
今日は旧暦の1月16日。グソー(あの世)の正月といわれています。
沖縄では毎年この日になると、墓参りをしてお供え物をし、先祖供養を盛大にします。
宮古、八重山など離島で盛んに行われている行事ですが、里帰りできないなどの理由から、三重城の海岸では、故郷の島に向かい手を合わせる家族連れがたくさん訪れます。写真はその三重城の様子。
風が強く、また津波の懸念もありましたが、無事に16日祭を終えることができました。
今日は県立高校の卒業式と重なりましたが、石垣島では卒業式を延期。離島ではそれほど根強く残っている重大行事というわけです。
先日、「海の駅 あやはし館」について紹介しましたが、そのあやはし館の目の前に、一隻の船が展示されています。
船の名前は「隆福丸」。この「隆福丸」は、山原船の技法を取り入れた日本で数少ない木造船で、建造されたのは約50年前。
1970年代まで屋慶名(やけな)から宮城島への渡し船として人々の生活を支えていました。
現在は海中道路ができ、「隆福丸」は渡し船としての機能を失いましたが、うるま市やあやはし館の管理の下、保存されることになったのです。
HYのセカンドアルバムにはこの船のことを歌った「隆福丸」という曲が入っています。
ちなみにHYのボーカル、新里さんの祖父が使用していたようです。
今日14日は旧暦の正月にあたります。
沖縄は旧暦文化が強く、旧暦で行うイベントも多々ありますが、旧正月は特に糸満地域が根強く残っています。
今年は日曜日にあたりましたが、平日の年には糸満市内の学校が休みになるほど。
そんな糸満市にある糸満漁協では、毎年旧暦の正月になると、ウミンチュ(漁師)たちは港へ戻り、色鮮やかな大漁旗を漁船に飾り祝います。
航海安全と大漁を祈願するのだそうです。
各々の船の名前の旗や日本国旗が海風になびいていました。
この他、漁船には旧正月の3日間、米、酒、塩などを供えるそうです。
「万座毛」とは、沖縄本島中部に位置する恩納村にあります。
18世紀はじめの琉球王、尚敬(しょう・けい)がこの地を訪れたときに「万人を座するに足る毛」と称讃したのがその由来であるといわれています。
「万座毛」というと、写真で見る断崖絶壁が指されることが多く、崖のことを「万座毛」と勘違いする人も。
「毛」とは沖縄のことばで「原っぱ」のことで、その名の通り、崖の上の台地では天然芝が広がっていて、周りには亜熱帯植物が自生します。
ガイドブックには必ず載っているという、沖縄の観光名所。
万座毛の地図はこちら。
沖縄の歴史を語る上で欠かせない「首里城」。その首里城の敷地内に「龍譚(りゅうたん)池」はあります。
15世紀半ば、琉球を訪れた冊封使のすすめで、時の王、尚巴志が造成しました。
池の周りには遊歩道があり、散策することができます。
これから春を迎える沖縄では、池の周りの植物が花を咲かせ、それが池に落ちてもまた風流です。
写真には写っていませんが、池の中に小柄な建物が建てられています。これは「弁財天堂」といい、16世紀初め、朝鮮の王から贈られた方冊蔵経を納めるために建造されたそうです。
残波岬の遊歩道の途中、ある人物の像がありました。
これは、読谷村出身の泰期(たいき)という人物で、商売の神様といわれていた人だそうです。
泰期は14世紀後半、沖縄が琉球王朝時代の頃、中山王の命を受けて初の進貢使として中国に渡り、大交易時代の幕をあけた人物。
「読谷村の商工業の発展と地域活性の起爆剤」として、また、読谷村商工会35周年、村制100周年を記念して2008年11月に、この像を完成させました。
2009年6月には、第1回泰期まつりを開催。残波岬灯台が無料開放されました。
ちなみに泰期像は約180cmで中国福建省の方向を指さしています。
泰期の像の地図はこちら。
「石敢當」は、シーサーと並んで沖縄の魔よけの一つです。
魔物(マジムン)は直線に進むといわれ、それを防ぐため、沖縄はほとんどの曲がり角又は突き当たりに置いています。
「石巌當」や「石巖當」などとそれぞれ漢字が微妙に違いますが、嘉手納ロータリーにあるものは「石敢當」でした。
この場所は整備されてきれいになっていますが、昔から交通事故の絶えないロータリーだったようです。
それが理由かどうかはわかりませんが、この「石敢當」は人の身長以上の大きさ。
おそらく沖縄で一番大きな「石敢當」と思われます。
お土産用に可愛く小さく作られた置物も最近見かけるようになりました。