通称「シュガーホール」は、平成6年に南城市佐敷に開館しました。

正式名称は「南城文化センター・シュガーホール」といい、音楽の催しものを中心に芸術文化の振興が盛んに行われています。

県内唯一の音楽専用ホールとなっていて、町民の日常的なサークル等の活動拠点でもあります。

地域の学校の定期演奏会や、ピアノ演奏会、映画上映会、世界的有名な歌手のコンサートまで幅広く催されます。

客席数510席。駐車場200台収容。

南城市文化センター・シュガーホールの地図はこちら。

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佐敷グスク

11月 5, 2010

「佐敷グスク」は南城市佐敷にあり、現在の南城市役所佐敷庁舎の裏山にあります。

城壁や石積などは残っておらず、神殿と整備された階段、歴史ある樹木など。

写真の階段を上がって行った頂上の「月代宮」がある場所が主郭。

この「月代宮」は、グスク内に尚巴志王統のお宮として昭和13年に建立されたそうです。

佐敷グスク自体は、14世紀に、琉球王国第一尚氏の祖・尚思紹・尚巴志父子が築城したものとされています。

佐敷グスクの地図はこちら。

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西原町にある「内間御殿」。

金丸(のちの尚円王)の旧宅跡に、没後百九十年を経たのちに建てられたそうです。

写真は内間御殿の中の東江御殿とよばれる建物。

これまで、元の建物の様子がわかる写真がありませんでしたが、2000年には写真が見つかり、復元、改修工事に取り掛かっている模様。

この後ろ側は、樹齢が何十年のガジュマルやフクギなどの植物がいくつも生い茂っていて、拝所、井戸などがあります。その雰囲気はまさに聖地。

内間御殿の地図はこちら。

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崇元寺通り

9月 28, 2010

「崇元寺通り」は、那覇市安里の「崇元寺石門」の前の通りを指します。

国道58号線の泊高橋交差点から首里向け安里交差点までは「崇元寺通り」と呼ばれています。

周りには病院、商店、大手スーパー、塾など。

国際通りにも通じているので、車通り、人通りはいつも多めですが、戦前の崇元寺辺りは厳かな雰囲気があったのと、樹木が生い茂り、うっそうとした雰囲気で近寄る人はあまりいなかったそうです。

この道路を整備した当時の那覇市長が「又吉」さんだったため、年配者の中には「又吉通り」と呼ぶ人もいるようです。

崇元寺通りの地図はこちら。

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週刊レキオ

9月 5, 2010

「週刊レキオ」は、「琉球新報」の副読紙として、株式会社週刊レキオ社が毎週発行しています。

内容は沖縄の最新ローカル情報。

ドライブコースや観光情報、イベント案内や時の人まで扱い、読者の投稿も人気があります。

1985年、4月1日創刊。2004年5月27日に紙齢1000号を数えました。

大航海時代、琉球は東南アジアの中継貿易国として栄えた頃、ポルトガルは琉球のことを「レキオ」と呼び、沖縄の人たちは「レキオ人」として知られていました。

そこから由来して「週刊レキオ」となったようです。

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那覇市のすぐ隣にある浦添市。

その浦添市の象徴となっているのが「てだこ」=「太陽の子」です。

「てだこの街」として浦添市民はもちろん、多くの県民の間でも馴染んでいます。

これは、琉球王国時代に栄えた浦添城の王・英祖王の父が太陽であった、という伝説からきています。

「てぃだ」=「太陽」に「こ」がつき、「てだこ」=「太陽の子」。つまり英祖王のこと。

行事などにも「てだこ」を使用することが多く、毎年行われる「てだこ祭り」が有名で、市をあげて盛大に催されます。

写真は浦添市役所前の案内版。

これも「てぃだ」をモチーフにしたものだと思われます。

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久松五勇士顕彰碑

6月 17, 2010

hisamatu-goyuusi.jpg1905年、当時は日露戦争時代でした。

日本は、ロシアのバルチック艦隊の出現に備え、連合艦隊では猛訓練に励み、待ち受けることになりましたが、敵艦隊が何処に現れるかが大きな問題となっていました。

5月23日、バルチック艦隊が宮古島付近を北上している情報が帆船乗りの青年に発見されました。

しかし、日本の連合艦隊に報告する手段が当時の宮古島には無く、通信手段のある石垣島へ、漁師5人が荒波の中およそ170kmの距離をサバニで渡ることになりました。

漁師5人は命がけの航漕15時間、陸上を5時間かけて石垣島電信局に至り電報を発信。

しかし、それよりも早く仮装巡洋艦・信濃丸による連絡が早かったため、この情報が役に立つことはありませんでした。

昭和に入り、この忘れられた事実が判明し、5人は沖縄県知事より顕彰され、宮古島や石垣島では英雄として称えられています。

写真は、サバニを5本の柱で支えるコンクリート製のモニュメントが建てられている「久松五勇士顕彰碑」。

久松五勇士顕彰碑の地図はこちら。

野國総官の墓

5月 29, 2010

nokunisoukan-haka.jpg「嘉手納マリーナ」内に、「野國総官の墓」が建てられています。

樹木の生い茂った中の、ひっそりとした場所ですが、墓の内外に「野國総管墓供養碑」「野國野国由来記」の碑も建立されています。

1956年(昭和31年)2月22日に県文化財に指定されました。

野國総官は中国から甘藷(イモ)を持ち帰り、自分の村で栽培し、近隣の村に分配。

その後15年ほどかけて沖縄中に広まり、沖縄は飢饉から救われたことから、野國総官は「ウンムウフス(甘藷大主)」と呼ばれるように。

1700年に野国地頭だった章氏野国正恒が自分の財産で野國総官の墓を建てたといわれています。

野國総官の墓の地図はこちら。

野國總管の像

5月 18, 2010

nokunisoukan-zou.jpg野國總管(のぐにそうかん)は嘉手納町野国の出身で、尚寧王時代に首里王府の貿易船の總管役を務めた人です。

なので總管というのは本名ではなく、役職名。

1605年に中国福建省から甘藷(いも)の苗を鉢植にして持ち帰り、郷里の野国村で栽培しました。

当時の琉球は貧しく、人々は貧困に苦しんでいました。それが甘藷によって救われ、野國總管のその業績は今でも語り継がれ、「芋大主」(ウムウフシュ)や「産業の父」と呼ばれ親しまれています。

写真は「道の駅・嘉手納」にあった像ですが、嘉手納町国道58線沿い、米軍施設カデナマリーナ入口にもあるようです。

10月上旬頃には嘉手納町で「野國總管まつり」を催しています。

kakaji-takadainouta.jpg嘉数高台公園の展望台を上ると、そこから普天間基地を望むことができますが、そこに知花栄幸という人が作った詩「嘉数(カカジ)高台の詩」の石碑があります。

『大戦終わて 一昔過ぎて
世界に知りゆる象徴みして
嗚呼 嘉数高台』

『年や改まて 辰年と更て
願事ん叶て 名所出じて
嗚呼 嘉数高台』

『新た名ゆとたる村人の努力
弾の雨降たる 戦さ偲ぶ
嗚呼 嘉数高台』

この詩は5番まであるのですが、激戦地となった嘉数高台のことを詩っています。

戦争時の様子や、終戦後の偲びの思いが込められています。