識名園

11月 23, 2011

「識名園」は、琉球王家最大の別邸で、国王一家の保養や外国使臣の接待などに利用されました。

18世紀の終わりごろに作られたと言われています。

「識名園」は、池の周りを歩きながら楽しむ「廻遊式庭園」になっています。

写真の右手前の「六角堂」は中国風あずま屋で、アーチ橋で繋がっています。

池の周りを琉球石灰岩で積んだりと、琉球独特の風景にもなっています。

1941年に国の名勝に指定されましたが、大戦により破壊され、約20年の月日を持って整備。

1976年に再び国の名勝の指定を受けることができました。

2000年には特別名勝に指定され、さらにユネスコの世界遺産に登録されました。

識名園の地図はこちら。

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去った11月3日、「首里文化祭」が催されました。

「首里文化祭」は毎年文化の日に行われる、首里地区一帯のお祭りで、沖縄三大祭りの一つと言われています。

道路は歩行者天国となり、幾つかの地点で青年団、婦人会、子ども会等の旗頭、琉球舞踊、エイサー、空手などの伝統芸能の演舞などが披露されます。

写真は首里鳥堀青年会の旗頭演舞風景です。

灯篭(トゥールー)の菖蒲(ショウブ)は「優しさ・忍耐・信頼」という意味を持ち、デザインは戦前の旗頭をモチーフに復元したものだそうです。

旗字の「武勇」は先人達が常に勇ましく、果敢であった姿を受け継ぎ、伝えていこうという思いが込められているそうです。

全長9m、重量60kgの旗を十数人の旗持ちで交代しながら舞いを披露します。

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琉球漫葉集

11月 10, 2011

「琉球漫葉集」は、沖縄の方言でよく使われているセリフを「万葉集」にちなんで作成されたものです。

沖縄の方言は離島などで大きく異なることは「宮古方言」で説明しましたが、この「琉球漫葉集」は主に首里地区の方言で作成されているそうです。

とあるそば屋さんの壁に貼られていました。

レジ横でも販売しているそうです。390円。

少し紹介すると「カナサン」=「愛おしい」、「ニーブイカーブイ」=「眠くてウトウト」、「マーカイガ?」=「どこに行くの?」など。

「アガー」=「痛い」など有名な方言から難しい発音の方言もあり、面白いです。

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ウシヌジガマ

11月 5, 2011

「ウシヌジガマ」は、勝連城跡の二の曲輪の北西側にある洞窟です。

「ウシヌジ」の意味は敵に攻められて危険なときに身を隠してやり過ごす場所ということだそうです。

ウシヌジガマの洞窟内には火の神(ヒヌカン)がお祀りされています。

拝所としても利用されていました。

この「ウジヌシガマ」の洞穴と、一の曲輪の中央部にある「玉ノミウヂ御嶽」の洞穴は繋がっているらしいです。

戦時中は防空壕としても利用されていたようです。

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肝高の御嶽

10月 25, 2011

「勝連城跡」の三の曲輪に「肝高の御嶽」があります。

沖縄の読みで「ちむたかぬうたき」と読みます。

「肝高(きむたか)」とは、「心豊か」「気高い」「品位ある」という意味をあらわす勝連および勝連城の美称として沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」に登場する古語です。

「勝連城跡」の最後の城主・阿麻和利(あまわり)は、農業だけでなく中国や朝鮮などとの貿易によってこの地を反映させたことから「肝高の阿麻和利」と呼ばれることになりました。

「御嶽(うたき)」は拝所と呼ばれ、沖縄各地にあります。

「肝高の御嶽」は、城が滅んでからは祭祀所として使われたそうです。

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「二の曲輪」に登ってきたらまず最初に、規則的に並べられた磁石が目につきます。

これは西14.5m、南北17m規模の舎殿跡で、覆土によって遺構を保存指定しているそうです。

当時の勝連城跡で一番大きな建物で、按司の館、つまり正殿にあたる建物と思われます。

西側には抜け道の伝説がある「ウシヌジガマ」と呼ばれる洞穴があります。

写真は「一の曲輪」から見た「二の曲輪」です。

奥に人影が見えるので、建物の大きさもわかると思います。

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勝連城跡の三の曲輪は、儀式など催しをする広場であったと考えられています。

中国や日本製の陶磁器が発掘されています。

すり鉢状遺構が2つあり、粘土も使われていることから水を貯めて置いたものかと言われています。

勝連城跡は、一番高い平場から階段状に「一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪・・・」と低くなっていき、三の曲輪には色々な遺構が残っています。

三の曲輪には、他に「肝高の御嶽」が残っています。

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勝連城跡は、一番高い平場から階段状に「一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪・・・」と低くなっていきます。

写真は一の曲輪。

瓦葺きの掘っ立て柱建物が確認され、唐草模様の石材が発見されたことから、城門はアーチ式の門があったことがわかっています。

曲輪の中央にはタマノミウジと呼ばれる御嶽があります。

ここからは勝連半島だけでなく、伊計島、宮城島などパノラマ景色を眺望することができます。

写真撮影をする人が多くいますが、塀は決して高い方ではないので、あまり端の方に寄らないよう、注意が必要です。

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今年から「那覇まつり」の名を変更して「那覇大綱挽きまつり」となりました。

毎年10月の3連休に催され、ギネス認定を受けた世界一の大綱挽が、国道58号線久茂地交差点を中心に盛大に行われることは有名です。

初日の今日は、那覇市の中心部の国際通りで、各種サークル・地域団体・伝統芸能保存会による「市民演芸・民俗伝統芸能パレード」が催され、およそ50団体が華麗な演舞を繰り広げます。

3日間を通して、奥武山公園では「RBC市民フェスティバル」が行われ、打ち上げ花火をはじめ、ステージライブや例年恒例となったカラオケグランプリなど、様々なイベントを開催する予定。

「那覇大綱挽きまつり」は、琉球王朝時代からの伝統を引き継ぐまつりで、交易都市那覇を象徴するものでした。

昭和時代に一時期途絶えますが、那覇市の市制50周年を機会に再び催されています。

綱を挽き、その後の綱は縁起のいいものとされていて、ほとんどの参加者は綱を持ち帰ります。

このまつりを見に来るために、県外、国外から多くの観光客が来沖します。

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勝連城跡の歴史

10月 6, 2011

勝連城は、琉球王国が安定していく過程で、国王に最期まで抵抗した有力按司(あじ)阿麻和利が住んでいた城として有名です。

正確な記録はないが、勝連城には10代の城主がいたとされています。

3代目の勝連按司の娘は、のちの中山王察度に嫁入りし、三山が統一してからは、尚巴志の二男尚忠の妃に勝連按司の娘を迎えるなど王府との関係をもつようになりました。

9代目の茂知附按司は、阿麻和利によって倒され、その後ますます勝連は発展していきました。

阿麻和利はクーデターを起こし、琉球を統一しようとしましたが、王府の軍によって滅ぼされました。

沖縄の古い歌謡集「おもろさうし」では、当時の繁栄をみることができるようです。

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