松山尋常小学校・国民学校跡 in 松山公園
6月 18, 2016
松山公園内には、様々な石碑がありますが、これもそのうちの一つ。
「松山尋常小学校・国民学校」がありました。
松山尋常小学校は1902年に開校、その後国民学校として名前を変更します。
終戦後、1951年(昭和26)には小学校・病院跡地に那覇商業高等学校が開校しました。(写真の石碑の後ろは那覇商業高等学校の校舎です)
松山公園内には、様々な石碑がありますが、これもそのうちの一つ。
「松山尋常小学校・国民学校」がありました。
松山尋常小学校は1902年に開校、その後国民学校として名前を変更します。
終戦後、1951年(昭和26)には小学校・病院跡地に那覇商業高等学校が開校しました。(写真の石碑の後ろは那覇商業高等学校の校舎です)
はるか昔、中国の福建から沖縄に移住してきた人々がいました。移住者たちは、「久米三十六姓」と呼ばれています。
当時の琉球において、先端文明をもった移住者である「久米三十六姓」の政治的・経済的な地位は極めて高く、その末裔は今もなお、沖縄で大きな影響力を持っています。
彼らの住む「久米村」は当初城壁で覆われ、対外貿易の拠点・要塞となり、1609年に薩摩藩が琉球に侵攻した際には強く抵抗したそうです。
琉球政府の高官を務めた「久米三十六姓」の子孫は数多く、鄭迥氏や蔡温氏はいずれも、三司官にまで出世しました。那覇市牧志には今でも、「蔡温橋」という名前の橋が残っています。