「県病院」「県立病院」と呼ばれ、当時は県内唯一の総合病院だった「沖縄県立沖縄病院」。
最初は西村(現在の那覇市西)に出張所として医療をしていました。
1878年には医局を置き、1885年には下の天妃宮に移転して初めて病室を設け、入院患者を収容。
1901年に、写真の石碑が置かれている場所、那覇市松山に移転したそうです。
1944年10月10日の空襲で建物が焼失し、1945年には自然閉院。
現在は、公園と那覇商業高等学校の敷地になっているようで、商業高校では病院にまつわるうわさ話があるとかないとか・・・。
沖縄県立沖縄病院跡地の地図はこちら。
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太平洋戦争での戦禍によって、松山公園の敷地内にあった「沖縄県立第二高等女学校」は1944年10月10日に校舎が全焼しました。
民家などで分散授業が行われましたが、戦争はさらに激しくなり、学校としての機能は成り立たず、戦後も復興されることなく自然廃校となりました。
写真の像は「白梅の乙女たち」の像。
創立80年の節目に、元職員、同窓生、家族の協力を経て、母校が存在した証の像が建てられました。
白梅の乙女たちの地図はこちら。
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松山公園内に「ユウナヌカー跡」がありました。
沖縄の方言で「カー」とは井戸のこと。
近くにユウナの木があったことから、「ユウナの井戸」という意味でつけられたようです。
昔の貴重な水資源で、多くの人が飲み水に利用したそうです。
1933年に、当時念願だった水道が敷かれ、以降使われなくなりましたが、その後も水への感謝として拝まれているそうです。
ユウナヌカー跡の地図はこちら。
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那覇市松山公園内にある顕彰碑は、沖縄発祥の空手を広めた二人の功績を讃えて建てられました。
東恩納寛量は「那覇手」の祖といわれ、明治期を代表する空手家(当時は唐手と書く)です。
「那覇手」とは空手道の三大系統の一つで、「首里手」「泊手」と並びます。
剛柔流の開祖である宮城長順の師で、顕彰碑には並んで名前が刻銘されています。
顕彰碑には、全日本空手道剛柔流会藩士深利勝之会長はじめ20数名の幹部会員の名前が奉納記帳されています。
東恩納寛量・宮城長順の顕彰碑の地図はこちら。
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