孔子像
国道58号線沿いの那覇商工会議所前に、中国の春秋時代の思想家・孔子の像が建てられています。
これは1974年に台北市から寄贈されたもの。
台座の銘板には、「大成至聖先師 孔子造像」とありました。
孔子とその4人の弟子(顔子、子思、曾子、孟子)を祀る「孔子廟」が、若狭にあるのですが、第二次世界大戦で破壊されるまでは、この孔子像がある場所が本来の跡地のようです。
国道沿いを車で走っていてもすぐに見つけられるほどの大きさなので、目にした方は多いと思います。
国道58号線沿いの那覇商工会議所前に、中国の春秋時代の思想家・孔子の像が建てられています。
これは1974年に台北市から寄贈されたもの。
台座の銘板には、「大成至聖先師 孔子造像」とありました。
孔子とその4人の弟子(顔子、子思、曾子、孟子)を祀る「孔子廟」が、若狭にあるのですが、第二次世界大戦で破壊されるまでは、この孔子像がある場所が本来の跡地のようです。
国道沿いを車で走っていてもすぐに見つけられるほどの大きさなので、目にした方は多いと思います。
那覇市には上天妃宮と下天妃宮の二つがありましたが、現在残っているのは、この上天妃宮跡のみです。
上天妃宮が造られたのは、そこにかけられてあった鐘に記されていた年号から、15世紀半ば頃と考えられています。
「天妃」とは皇帝から送られた称号のことで、航海安全の守護神「媽祖(まそ)」とあがめられた女性のこと。
中国南部の沿岸地方で広く信じられていて、琉球にやって来た中国人により、広められて行ったそうです。
石門の周りは琉球石灰岩で造られた石積みと石段。
近隣には小学校、住宅街の中に、ここだけ雰囲気が違うスポットです。
その後ろには昭和天皇が作ったという2首が、壁面にありました。
「わが国は神のすゑなり神まつる昔の手ぶりわするなよゆめ」
「たらちねの親に仕へてまめなるが人のまことの始なりけり」
この銅像は、明治百年を記念して作られたということです。
銅像の台には、明治元年に新政府を設立された時の基本方針「五箇条の御誓文」が刻まれています。
1 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
2 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
3 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
4 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
5 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
「堂小(ドゥグワー)」とは、久米の東寿寺小堂付近にあった住宅のこと。
久米村の下層階級の人がここに暮らし、滋養薬となるカエルやコイなどを売って生計を立てていたそうです。
つまり、この屋敷は久米村の生活困窮者を救済するための施設だったそうです。
写真の石碑には「堂小」の下に小さく「東壽寺跡」とあります。
東寿寺は波上の護国寺の末寺(本寺に従属する寺)で、頼慶という僧が法を説いていたとされています。
波上宮の境内へ向かう参道の左手に、「天皇のおことば」という石碑が建てられていました。
第二次世界大戦の後、沖縄の悲惨な現状への哀悼の意と復興の願いを込めた言葉です。
石碑には「思はざる病となりぬ 沖縄をたづねて果さむ つとめありしを」と彫られています。
沖縄は戦後アメリカの占領下となり、来沖を願っていた昭和天皇陛下が訪れることが出来る頃には、病によって叶うことはありませんでした。
その思いを綴った手紙の内容が、石碑となってここに残されています。
「さきの大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を蒙り、一般住民を含む府数多の尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思うとき深い悲しみと痛みを覚えます。」という冒頭から始まり、「健康が回復したらできるだけ早い時期に訪問したい。」「平和で幸せな社会をつくり上げるため、更に協力してくれることを切に希望します。」と綴られていました。
糸満市の糸満ロータリーで、3日からラウンドアバウトの運用が沖縄県内で初めて開始されました。
「ラウンドアバウト」とは、時計回りに一方通行となっている円形の交差点のこと。
構造上、全ての車が減速して交差点へ進入することから、事故が起きにくいとされています。
信号機がなく、停電などの影響も受けないため、災害に強いのも特徴です。
ただ、現在は社会実験としての運用で、来年の2016年3月末まで。
その後は正式導入される見通しです。