黄金森(こがねもり)公園
「黄金森(こがねもり)公園」は南風原町にある、敷地の広い公園です。
陸上競技場、野球場をはじめ、陸軍病院壕、文化センターや公民館などがあります。
遊具はありませんが、公園内の歩道は足への負担を考慮された素材が使われており、日々のウォーキングには最適です。
この公園内だけで壕が30以上もあるそうで、あちこちに石碑も見受けられました。
広い公園なので、歩くだけでも時間がかかります。
所々にあずま屋も設置されていました。
「黄金森(こがねもり)公園」は南風原町にある、敷地の広い公園です。
陸上競技場、野球場をはじめ、陸軍病院壕、文化センターや公民館などがあります。
遊具はありませんが、公園内の歩道は足への負担を考慮された素材が使われており、日々のウォーキングには最適です。
この公園内だけで壕が30以上もあるそうで、あちこちに石碑も見受けられました。
広い公園なので、歩くだけでも時間がかかります。
所々にあずま屋も設置されていました。
平成23年10月、地域交流センター「南風原町立中央公民館」がオープンしました。
それまでの旧館は昭和53年から図書室、研修室、ホールなどを備えて地域振興に大きな役割を担っていましたが、「黄金森公園」内にできた新館は、黄金ホール(505名収容の可動式座席)や高度なコンサート対応の舞台装置、研修室(3室)、視聴覚室、調理室を備えており、町立図書館も併設されていて、総合的な文化事業が実施できる施設と期待されています。
現在、工芸・文化サークルが7つ、音楽サークルが11つ、琉舞・ダンスサークルが7つ、体操サークルが4つもあり、充実しています。
「南風原文化センター」は南風原町「黄金森公園」内にあります。
南風原町や沖縄に関する歴史資料や沖縄戦に関する展示、そして移民やむかしの暮らし等の展示を行っています。
常設展示のほか企画展や講演会、音楽会、交流会なども行っています。
図書室では南風原や沖縄に関する、歴史文献資料等をそろえ、映写室では南風原や沖縄の戦争・平和・暮らし・歴史などに関するフィルム、VTRなどがみることができます。
開館時間は午前9時~午後6時まで。
毎週水曜日は休館日となっています。
入館料は一般300円、中高生200円、小学生150円。
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
南風原町の「黄金森公園」内に「南風原陸軍病院壕」と「悲風の丘」の石碑があります。
ここは戦時中、南風原陸軍病院があった場所ですが、空襲によって施設が損壊してしまいました。
米軍の上陸を前に、病院は黄金森一帯に掘られていた30余りの壕(通称、南風原陸軍病院壕)へと移動。
さらに軍司令部が南部に撤退した頃に、病院も南部へ移動します。
そこで重症患者などに自決の強要がされたと言われています。
1953年に建てられた石碑には南風原陸軍病院壕、重傷患者二千余名自決之地と刻まれていますが、亡くなった人の数は未だに明らかにされていないそうです。
南風原町は戦争の悲惨さを伝える証として、1990年、現存する第1外科壕群と第2外科壕群を文化財に指定しました。
「七滝」は、沖縄本島北部、大宜味村喜如嘉にある滝のことです。
喜如嘉の集落内にある公民館と芭蕉布会館の間の道を行くと小さな喫茶店があるので、そこの横路地を進みます。
舗装されていない道で雨上がりなどは大変ですが、2台分ほどの駐車場に車を置いて歩きます。
生い茂る木々が両脇にある一本道で、突き当りにある「七滝」まで迷わずに行けます。
高さ20mほどから落ちてくるまでに七回軌道が変わるので「七滝」と呼ばれるそうです。
ブナガヤーといわれる妖精が棲むといわれる神秘の森に流れる滝で、鳥居があったり、拝所があったり、神聖な場所のようです。
この付近でとれた水は名水として販売されています。
名護市宇茂佐(うむさ)にある「パイ工房 おしゃれ」は、保存料が一切使われていないパイを販売しています。
外観が可愛らしい建物も、店舗と工場を兼ねているので、その日焼きあがったばかりのパイを頂くことができます。
パイはブルーベリー、クリームチーズ、紅芋、チョコレートなど、全13種類と豊富。
小さめサイズなので飽きずに色んな種類を楽しむこともできます。
パイ20個詰め合わせで1,000円(1つ50円)。
定休日は火曜日。
営業時間は9時~17時ですが、売り切れ次第終了だそうです。
「世界のうちなーんちゅ大会」が催されるほど、世界には沖縄出身の海外移住者が多くいますが、南風原町からも多く移民者が出ています。
その先は南米、ハワイ、フィリピンなど。
ブラジル移民の中には、移民団の沖縄移民総代となった城間真次郎やのちに日系人初の歯科医師となった金城山戸、天才賭博師「イッパチ」としてブラジルにその名をはせた儀保蒲太がいたそうです。
新垣弓太郎は、中国本土に渡り、孫文の同志として辛亥革命を戦ったといわれています。
総代の城間真次郎さんが詠んだ琉歌「雨や降て湿めて 季節待ちゅらでもの 播(ま)き起きし種の はえなうちゅみ」が刻まれた記念碑が南風原文化センターの敷地内に建てられています。
「1世がまいた種が2世、3世の時代に芽を出し、子孫が繁栄してほしい」という願いが込められているそうです。
沖縄戦当時、本土へ集団疎開する学童たちは少なくありませんでした。
南風原町の国民学校も例外ではなく、1944年8月に対馬丸と同じ船団で熊本県に124人、次いで9月に宮崎県へ146人が疎開。
2年間の生活を経て1946年に帰郷しました。
2004年、疎開者が疎開地の足跡を訪れたことをきっかけに、「南風原国民学校 学童集団疎開記念碑」を建立。
南風原町の黄金森公園内・南風原文化センターの入り口で見ることができます。
記念碑の説明板には「ややもすると忘れ去られがちな、この「学童集団疎開」の実態と、それが「沖縄戦の一環で国策として遂行された」という歴史的事実を後世に伝え、戦争を拒否し平和を創造していくという強い意志をもって、南風原国民学校学童集団疎開記念碑を建立します」と書いてありました。