ソテツの種子
種子は11月~12月に朱赤色に熟します(写真参考)。
大きさは100円玉ほど。
見た目は果実のようですが、「ソテツ」は裸子植物なので厳密には種子となります。
ソテツは、日当たりも風通しもいいところを好みます。
日陰でも明るい場所であれば問題はありません。
ただ、冬は沖縄などの暖かい地方では、外でも越冬することができますが、寒い地方では、越冬できません。
種子は11月~12月に朱赤色に熟します(写真参考)。
大きさは100円玉ほど。
見た目は果実のようですが、「ソテツ」は裸子植物なので厳密には種子となります。
ソテツは、日当たりも風通しもいいところを好みます。
日陰でも明るい場所であれば問題はありません。
ただ、冬は沖縄などの暖かい地方では、外でも越冬することができますが、寒い地方では、越冬できません。
沖縄の読みで「ちむたかぬうたき」と読みます。
「肝高(きむたか)」とは、「心豊か」「気高い」「品位ある」という意味をあらわす勝連および勝連城の美称として沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」に登場する古語です。
「勝連城跡」の最後の城主・阿麻和利(あまわり)は、農業だけでなく中国や朝鮮などとの貿易によってこの地を反映させたことから「肝高の阿麻和利」と呼ばれることになりました。
「御嶽(うたき)」は拝所と呼ばれ、沖縄各地にあります。
「肝高の御嶽」は、城が滅んでからは祭祀所として使われたそうです。
「二の曲輪」に登ってきたらまず最初に、規則的に並べられた磁石が目につきます。
これは西14.5m、南北17m規模の舎殿跡で、覆土によって遺構を保存指定しているそうです。
当時の勝連城跡で一番大きな建物で、按司の館、つまり正殿にあたる建物と思われます。
西側には抜け道の伝説がある「ウシヌジガマ」と呼ばれる洞穴があります。
写真は「一の曲輪」から見た「二の曲輪」です。
奥に人影が見えるので、建物の大きさもわかると思います。
勝連城跡の三の曲輪は、儀式など催しをする広場であったと考えられています。
中国や日本製の陶磁器が発掘されています。
すり鉢状遺構が2つあり、粘土も使われていることから水を貯めて置いたものかと言われています。
勝連城跡は、一番高い平場から階段状に「一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪・・・」と低くなっていき、三の曲輪には色々な遺構が残っています。
三の曲輪には、他に「肝高の御嶽」が残っています。
勝連城跡は、一番高い平場から階段状に「一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪・・・」と低くなっていきます。
写真は一の曲輪。
瓦葺きの掘っ立て柱建物が確認され、唐草模様の石材が発見されたことから、城門はアーチ式の門があったことがわかっています。
曲輪の中央にはタマノミウジと呼ばれる御嶽があります。
ここからは勝連半島だけでなく、伊計島、宮城島などパノラマ景色を眺望することができます。
写真撮影をする人が多くいますが、塀は決して高い方ではないので、あまり端の方に寄らないよう、注意が必要です。
今年から「那覇まつり」の名を変更して「那覇大綱挽きまつり」となりました。
毎年10月の3連休に催され、ギネス認定を受けた世界一の大綱挽が、国道58号線久茂地交差点を中心に盛大に行われることは有名です。
初日の今日は、那覇市の中心部の国際通りで、各種サークル・地域団体・伝統芸能保存会による「市民演芸・民俗伝統芸能パレード」が催され、およそ50団体が華麗な演舞を繰り広げます。
3日間を通して、奥武山公園では「RBC市民フェスティバル」が行われ、打ち上げ花火をはじめ、ステージライブや例年恒例となったカラオケグランプリなど、様々なイベントを開催する予定。
「那覇大綱挽きまつり」は、琉球王朝時代からの伝統を引き継ぐまつりで、交易都市那覇を象徴するものでした。
昭和時代に一時期途絶えますが、那覇市の市制50周年を機会に再び催されています。
綱を挽き、その後の綱は縁起のいいものとされていて、ほとんどの参加者は綱を持ち帰ります。
このまつりを見に来るために、県外、国外から多くの観光客が来沖します。
「アフリカマイマイ」は巻貝の仲間で、日本では沖縄本島、石垣島、宮古島、徳之島、奄美大島や、小笠原諸島の父島、母島、南鳥島などに分布しています。
「アフリカマイマイ」には寄生虫がいて、人間に寄生した場合、、好酸球性髄膜脳炎を引き起こす危険があり、外来生物法で「要注意外来生物」に指定されています。
夜行性で昼間は草地や林縁部などの土中に潜んでいて、夜になるとエサを求めて移動します。
のろいカタツムリのイメージとは異なり、移動速度はかなり速く、一晩で50m以上も移動するそうです。
あまりイメージの良くない「アフリカマイマイ」ですが、日本に持ち込まれた目的は「食用」だったそうで、今でも台湾や中国で食用利用されているようです。
念のため、道端などで発見した際には触らないでください。
勝連城は、琉球王国が安定していく過程で、国王に最期まで抵抗した有力按司(あじ)阿麻和利が住んでいた城として有名です。
正確な記録はないが、勝連城には10代の城主がいたとされています。
3代目の勝連按司の娘は、のちの中山王察度に嫁入りし、三山が統一してからは、尚巴志の二男尚忠の妃に勝連按司の娘を迎えるなど王府との関係をもつようになりました。
9代目の茂知附按司は、阿麻和利によって倒され、その後ますます勝連は発展していきました。
阿麻和利はクーデターを起こし、琉球を統一しようとしましたが、王府の軍によって滅ぼされました。
沖縄の古い歌謡集「おもろさうし」では、当時の繁栄をみることができるようです。