第61回沖展が現在、浦添市民体育館にて催されています。
絵画・版画・彫刻・グラフィックデザイン・書芸・写真・工芸(陶芸・漆芸・染色・織物・ガラス)の創造性溢れる作品を展示。
3月22日から開催されており、4月5日までとなっています。
当日券は大人1000円、小人500円。
各界の秀逸作品960点を一度に見ることができるわけです。
また、4月9日から15日まで、うるま市にて選抜展の開催予定です。
第61回「沖展」出品作品の中から、入賞作品、会員・準会員作品、うるま市民の入選作品を紹介するようです。
沖展会場(浦添市民体育館)の地図はこちら。
琉球王朝時代の本や歴伝には、「按司(あじ)」というものがよく出てきます。
この「按司」とは、地方の支配者のことで、今でいう市町村長のようなものですが、れっきとした称号なので王族の王子や按司の長男などが就きました。
位は王または王子の次の位階になります。
『この琉球に天帝子という人物が住み着き、三男二女をもうけた。長男は天孫といい、国君(王)の始めとなり、次男は按司(諸侯)の始めとなり、三男は百姓(平民)の始めとなった。』という神話もあります。
按司たちは、沖縄各地でそれぞれのグスクを拠点とし、武力を拡大させながら小国家を作っていきました。
14世紀になると、「今帰仁を中心とした北山」「浦添を中心とした中山」「大里を中心とした南山」の三大勢力が出来上がります。この時代を「三山時代」といいます。
平和祈念公園内に、「平和の丘」というものがあります。
アーチ型で、広場から見てすぐわかります。
「平和への強い意志」「揺るぎない誓いの精神」を表した黒御影石で、奥に進むと天井から「平和の光」が差し込む造りになっています。
丘の下にはトンネルを掘り、沖縄で“ガマ”と呼ばれる自然洞穴に見立てられています。
写真を撮影した日にガマを覗くと、花が添えられていました。
1995年に「平和の礎」が完成したのに対し、「平和の丘」は2001年に建てられました。
平和の丘(平和祈念公園)の地図はこちら。
平和祈念公園内の、平和祈念資料館の外に、米軍のキャタピラや旧日本軍の魚雷が展示されています。
戦争時に使用されたもので、宜野湾市にて発見されたそうです。
沖縄不発弾等対策協議会が、2007年度の1年間だけで781件、およそ25トンの不発弾が処理されたと発表しました。
今もなお約2300トンが地中に埋まっていると推測され、国や県、各市町村が不発弾処理の負担を強いられている状況です。
最近では、南風原町で児童が不発弾と知らず校内に持ち込んだことや、糸満市で水道工事中に接触爆発した事件などが取り上げられました。
沖縄といえばキレイな海と青い空を思い浮かべる人は多いですが、戦争時の爪跡が今でも多く残っていることも事実なのです。
米軍のキャタピラ(平和祈念公園)の地図はこちら。
写真は沖縄戦で殉職した島田叡(あきら)知事と県職員453名を祀る慰霊塔です。
1951年に、旧県庁の生存者と県民によって建立されました。
島田氏は兵庫県出身で、大阪府の内務部長を務めていましたが、1945年に沖縄県知事に打診されました。1945年は米軍が慶良間諸島をはじめ沖縄本島上陸した年でしたが、周囲の反対を押し切って受諾したと言われています。
死を覚悟して沖縄へやってきた島田氏は就任後、沖縄駐留の軍との関係改善に努めたり、前任者のもとで遅々として進まなかった北部への県民疎開、食料の分散確保など多くの問題を処理していきました。
こうした姿勢や人柄が、県民の信頼を深めていったようです。
1945年6月、同行していた県職員や警察を解散させ、摩文仁の壕を出て以来、消息を絶ちました。今日まで遺体は発見されていませんが、元兵士による証言で「自決した」可能性もあるようです。
島守之塔(平和祈念公園)の地図はこちら。
平和祈念公園には、沖縄平和祈念堂もあります。
恒久平和を祈念して平和祈念公園内に建造された高さ45m、七角形の堂塔。
塔の中には、沖縄出身の偉大な芸術家山田真山画伯が全戦没者の追悼と世界平和を願う沖縄県民の心を一身に担い、晩年の全生涯を捧げて制作したといわれる「沖縄平和祈念像」が置かれています。
高さが約12メートル、幅約8メートルの人間の祈りの姿の像で、台座に想像上の花や蛟竜を配しています。
6つの花弁は、人類が日常生活を営んでいる6つの大陸を意味しているそうです。
塔の周囲には平和の鐘や絵画美術館、瞑想の森、清ら(ちゅら)蝶園などがあります。
清ら蝶園では、羽を広げると13cmに達する国内最大級の蝶「オオゴマダラ」を飼育しており、6月23日の慰霊の日に、戦没者の鎮魂と世界平和の願いを込めて空へ放たれることになっています。
沖縄平和祈念堂(平和祈念公園)の地図はこちら。
平和祈念資料館は、平和祈念公園の中にあり、様々な資料を展示しているところです。
常設展示の第一室では「沖縄戦への道」として、沖縄戦に至るまでの沖縄の歴史や戦争がなぜ起こったのかを展示しています。
そこから第二室、第三室は戦時中の被災状況や防空壕での生活を復元した展示などが続き、第五室では戦後の収容所生活、27年間の米軍統治、復帰運動、平和創造を目指す沖縄を展示。
まさに、沖縄戦の始まりから戦後の住民生活までを、ほぼそのままにわかりやすく紹介されています。
平和学習の一環として、修学旅行生も多く訪れ、沖縄から「平和の発信」として中心になっているのが平和祈念資料館なのです。
平和祈念資料館(平和祈念公園)の地図はこちら。
摩文仁(まぶに)は糸満市にある地域名で、1946年の合併までは摩文仁村として存在していました。
沖縄戦の末期、日本陸軍第32軍の司令部が最後に置かれた場所でもあります。
沖縄戦では、摩文仁が最後の激戦地となったことは有名で、村民だけでも犠牲者数は約1200人近くと村人口の約半数にもなったそうです。
そのため村独自では復興が難しく、合併に至ったということです。
写真は平和祈念公園から見える岸壁です。沖縄戦で追い詰められた住民たちは、米軍に捕まるよりは崖から飛び降りることを選択することもあったようです。
摩文仁の崖の地図はこちら。
沖縄本島南部の糸満市摩文仁(まぶに)に、平和祈念公園があります。
世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などでなくなられたすべての人々の氏名を刻んだ祈念碑「平和の礎」を、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建設、1995年6月23日の慰霊の日に除幕式が行われました。
沖縄県内のみならず、毎年多くの修学旅行生たち、観光客が平和学習の一環として訪れます。
「戦没者の追悼と平和祈念」「戦争体験の教訓の継承」「安らぎと学びの場」の3つが平和の礎の基本理念となっています。
平和の礎に刻印されている名前は、2006年の時点で24万人を超えていますが、今もまだ追加刻銘を受け付けており、その数は増え続けているようです。
平和の礎(平和祈念公園)の地図はこちら。
沖縄の伝統楽器「さんしん」は、別名「蛇皮線(じゃびせん)」とも呼ばれていて、張ってある皮はニシキヘビの皮です。
日本には生息しないニシキヘビですが、琉球王朝時代にアジアとの交易によって輸入されていたようです。
1993年、元アナウンサーが提唱したのをきっかけに「さんしんの日」ができました。以来、毎年3月4日になると沖縄県内各地で一斉に、時報の音に合わせ、沖縄の代表的な祝いの曲「かぎやで風」を奏でます。
メイン会場の読谷村立文化センターでは、正午から午後8時までの毎正時(計9回)に「かぎやで風」を演奏するほか、古典・民謡の演奏や琉球舞踊などが300人以上の演者によって披露されます。
ラジオでもこの模様が公開生放送されており、メイン会場に行けなくても参加できることが魅力の一つかもしれません。
ちなみに写真は模型です。